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世界のスパフリークを虜にするハイレベルなサヌス・パーアクアム(水を通じたウェルネス体験)を提供している-その他

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---シーク教には特別な祈り方も苦行もないようですが、他とは違う点はありますでしょうか。

 

空腹だと祈りもままなりません。

一階に食堂があり、朝昼晩、いつでも無料でベジタリアンの食事を誰でも召し上がることができます。

シーク教はどのような肉でも食べられますが、祈りの場にはヒンズー教徒や仏教徒、イスラーム教徒もお越しになりますので、誰もが食べられるようにしています。

 

イスラームではラマダーンがあります。

他に飢えているイスラム教徒と同じように苦しむための義務ですが、我々からしますと少しおかしな話です。

飢えている人がいたら、一緒に苦しむべきではありません。

まずその飢えている人にたくさん食べさせられるように動くのが、シーク教の基本なのです。

 

実は祈りと瞑想をせず、食堂で食事をしてさっさと帰る信者が多数おります。

少しでも良いから食後に祈りの場でグルの言葉を聴いてほしいものであるが、それを責めることは一切ありません。

腹を空かせている人を助けることの行為そのものが、祈りでありますから。

 

 

 

---なぜ、髪の毛や髭を剃らないのですか?

 

神様から与えられた身体であることを、実感するためです。

髪の毛は伸ばしっぱなしですが、ほとんどの人はある程度の長さになるとそれ以上伸びないでしょう?

髭もある程度の長さになると、それ以上大仰なものにはなりません。

一人一人違う…それを認識し、お互いを認め合い、神から与えられたこの身体そのものが、神の栄光そのものであるということを知るために、我々は頭より上には一切の刃物をあてないようにしております。

 

では頭より下はどうなのか…と思われるでしょう。

例えば爪。

ヒンズー教の修行僧の一部は、爪を伸ばしっぱなしにして、それを修行の一つだと主張しておりますが、社会を良くする行為とは一切無関係である、果たして神の求められていることなのでしょうか。

特殊な祈りや派手なパフォーマンスをして、「お布施」だと主張して信者から金を受け取る行為は、神の求める行為とはとても言えません。

我々は働くために、爪を切らなければなりません。

肉体労働者も、事務職の人も、医者も弁護士もSEも、誰もが社会の中でしっかりと生きる、働くために、神から与えられた一部の部位についてそれを直す必要に迫られます。

神から与えられた身体であることに感謝し、社会のために働くことに感謝するために爪などを直すのは、正しくしっかり生きるために必要なことであり、ここにバランスを取っています。

 

 

 

---誰でもシーク教徒になれるのでしょうか。

 

あなたがグルの教えに共感し、グルの教えを通して神を信じ、シークの道を歩まれると決意されるのであれば、我々はあなたをあらゆる形で支えていきます。

逆にシーク教徒にはとてもなれないのであれば、それで良いのです。

またシーク教徒になっても、やはりついていくのが難しい、離教すると仰るならば、引き留めることは致しません。

最初に申しましたが、すべての宗教は同じ一つの神、そして共通してあるのは、如何に正しくしっかりと生きるか、それが求められているから、どの宗教を信じていようと、同じ兄弟であり、同じ家族なのです。

だから悲しむということもないし、怒ることもありませんし、残念に思うこともないのです。

ただただ求めるのは、人間としてちゃんと生きているのか、それだけが重要です。

 

逆に我々が一番軽蔑するのは、

「うちの宗教だけが救いで、他は間違っている、おまえは地獄に落ちる」

「違う宗教だからおまえを迫害しても良い、殺しても良い」

と主張し、他の恐怖に陥れ、脅迫し、洗脳し、認めようとせず、破壊し、財産や地位を奪う過激な集団です。

そういう過激な連中は、とても人間らしい生き方をしているとは言えません。

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